2015年8月5日水曜日

格物致知~分類するは我にあり☆

今日は久しぶり(と言っても10日ぶり)の葡萄酒・・・いや武道の会。

 強い老人にこってりと投げられてきますよ(*_*; もう明日のことが心配・・・(笑)

さて、雲南の兄弟子夫妻が無事帰国されたとのこと。...
今回はまったく・・・行き違いになってしまい失礼をしてしまったが写真からお元気そうな様子がうかがえ嬉しかった。
落合兄、本当にお疲れ様でした!



私もこれから一皮剥けないと・・・!


日本のもの中国のもの、そこに通底する一線。
細かいことはイイから、ザックリとでもイイから、共通の感覚言語を探っていきたい。
なによりも、それは自分のためになる。豊富な栄養素が詰まった、宝の貯蔵庫のように思われるのです。

細かいことこそ大事・・・という人、結構たくさんいる。

あの門とこの流儀のここがこう違う・・・とか、
その技って本当は~から来て、もともとはそこにはなかったのでは・・・とか、

 でもそう言う人のどれだけが、必要から出てきた言葉を語っているんだろうなあ。ぼくなんか短気だし、現実主義者なもんだから、すぐにしゃら臭ぇ!とか思ってしまう。

そんなもん、7割おんなじだったら、大体同じでいいだろうがよお!時代や地域が異なっている中で、そんなに類似なもんがあるって言う、奇跡の方に目ぇ向けろぃ!とか思っちゃう。

そこに拘る意味がわからないのだ。

もちろん学問は大切だ。人文系の学問として、体術流派を研究することに価値があることは重々承知だ。
しかし、旦那芸的、趣味人的な観点から細かいことに拘る人は意外と多い。あくまでもサブカル的に拘るのだ。それはまるでチョウの標本を収集するような感性に通じるのではないだろうか。
(むろんチョウ収集には何の意見もありませんよ!むしろ蝶は大好きです☆)

でも、世に達人と言われる人が、拘りこそすれ、その拘り方が違う気がする。
あるところは野放図なまでに大らか、あるところは厳格さに峻厳を極める・・・大事にしている点が明らかに違う。

 今までお会いした達人たちは、大体そういうメンタリティと観点を持っておられた。
その見つめる先には何があるのか・・・興味はつきない。

サブカルは、距離がある。人の生きる場所がない。
文化は、そこに人が息づく。何世代にもわたって、人の中で伝わってゆく知恵。
だからこそ躰術と言い、丹田文化と言いたい。

これからは私自身、そういった方向への傾倒が加速するような予感がする。そういった流れが、しっくりと来始めてしまったのだ。

 学問的観点が、世界を変えることは多い。
だれも見向きもしない分野をこつこつと開拓して、思わぬ地平を開いてしまう人たちがいる。

それと視点は違うけれど、現実的な、元も子もない「今さら」みたいな視点を持ち続けて、当たり前だと思われていた基底をあっさりと崩してしまう人もいる。


丹田とは、何で大切だと言われつづけてきたんだろう・・・考えれば考えるほどに、人が人として成り立つための重要な一点なんではないかなあ・・・などと妄想が膨らむ。
こんな元も子もないことを延々考えて今日まで来ております。

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