2015年11月19日木曜日

易不易

僕が教えている会の「特徴」がここに来て、よく見えるようになった。

それは「ブランド」で入会する人が、限りなく皆無に近い・・・!ということ。

10年20年と継続する人の中で、僕が誰々先生の弟子だ、とか、誰々の伝承を云々・・・みたいなことに詳しい人は、たぶんほとんど居られない。これは意外だった。

僕自身は、師傳に拘りを持ってやってきたし、自分の門派は有名ではないけれど歴史と格式のある良いものだという認識があるのだけど、長期で稽古されている方の中には、いまだ「姜氏門」を「しょうしもん」と読んだり、甚だしくは先生の先生って、シュー先生でしたっけ?そういえば女の人だったんでしたっけ?と言ったことすらある・・・(;´Д`)pヲイッ!!

ことあるごとに師父の話や武林の故事を紹介しているにもかかわらず・・・相当天然な人が集いに集っているのだ。

そして人の思いはとかくその通りにはならない、ということを頻繁に経験する。これは少し寂しいような気がしてしまう時もあるが、よく考えれば大変面白いことでもある。


~流なら~流、○○門ならそれで、ブランドで集った場合、そのブランドイメージが一つの指標となる傾向がある。
そこにいる指導者がブランドのイメージを表現しているうちは、生徒さんはついて来やすい。
しかしそのイメージとかけ離れてゆくと、生徒さんは離れる。
なぜなら、それはイメージといったふわふわしたものを媒介としてつながっているから。

でも実はそのイメージと言うのは多くの場合門外漢が、本の知識や伝聞、推測、そして多分のロマンを以てレッテルし、陳列されたもんがよくわからないうちに受け入れられてしまったモノなわけだから、往々にして実際とは違ったりすることがある。

だから世間で困っている先生方は、じつは結構おられるのではないかと推察している。先生のやることに、いちいちものの本ではこうでこうだ、とか茶々を入れられてはたまらないだろうしね。

伝承として伝わってきたものには、意外な切り口が多く、単純に外部からうかがい知れないような事柄も少なくない。
一定以上の修練を経て、はじめて師の示す本当の意味が理解できたりすることも一度や二度では利かない。


そういう意味では、うちの会の人はつき合いやすいのかも知れません。
姜氏門はこうでこうだ、とか、内家拳は云々とか、そもそもはじめっから余計な知識がない人が集まっているのだから。


僕がせっかく理解できた腕の角度は●●拳ではこうだけれど私たちの工夫はこうであるとか、示したところで「なるほど!」とは言うものの、なんだか他人事のよう・・・(; ・`д・´)このオタク的な喜びを共有して~なんて思う時もしばしば。

そもそもこだわりが少ない、というか関心が薄い・・・もうちょっと拘ってほしいと心配してしまう清々しいほどのアバウトさなのです( ;∀;)

うちの会で中々上達してきた方に、もっと拘るように!僕の全部を真似する気持ちが大事でしょう?と言ってみたら、こんな答えが返ってきた。

「お言葉ですが先生、私たちは生きてゆくうえで役に立つことをしたいので先生の教えを受けているのです。これからの人生、素手で勝負なんていうことは中々ないでしょう。私の関心は先生の仰っていた奇正相生にあります。腕の角度よりも今はあの身法を自分のものにしたいのです。」と、良い顔でにっこりと語るのだ。

・・・僕が自分の師父にそんなことを言えるかというと、口が裂けても出ようのない爆弾発言なのだが、困ったことに、僕はこれはこれで堂々とした立派な見解だと思ってしまう。
つまり、今の時代を生活者として生き遂げるための必要な躰術として、これを捉えてくれているということなんだから、十分に伝統を「活かす」心がありますよ!という表明と捉えられなくもないのだから。

むしろ一介の(と言ったら失礼だけれど)主婦が、心身に対してこのように明確な意識をもって対峙するようになった、というところが嬉しく、頼もしくもあるわけです。(もちろん拝師を念頭に置く場合はちゃんとしていただきますよ。でも自分の場合まだ早いと思っています。)

人はそれぞれ、会のありようも、それこそ教場のメンバーによっても色々です。
僕のようにマニアックに突っ込んでいく人も否定はできない。(というか居ると嬉しい)でも多くの生活者は、効率の良い動き方や、壊れにくい心身のありかた、生活のメリハリとしての良き運動習慣をこそ求めている。

そこに図らずもコミットしてしまい、師範を仰せつかった僕としては、彼らに添い乍ら躰術を楽しんで行く道を歩もうと覚悟しているわけです。
どんな形であれ、自分に伝えられ研究してきた技術が、縁のある人たちと共有でき、それが心身を自覚的に統御する方向に向かわせているのだから、まったく無価値の行為だとは考えられないわけです。

武術家として物足りない、せっかく伝統の素晴らしい師傳が云々と忝くも心配してくださる方もおられるかもしれませんが、私の示され、志向する道と言うのは独自のものです。これは私にしかできないものだし、私以外の方からすれば何の価値も見いだせない石ころの様なものなのかもしれません。

でも、それでいいのではないでしょうか。人間って往々にしてそういうものなのだと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿